人間は感情の動物だと言われますが時には鉱物の如く味覚も視覚も喜怒哀楽も関係ない自分だったらもっと楽に存在することができたかも、神様は複雑に作りすぎたなぁ。


我が家の夕食

いただき物のさつま揚げですが正真正銘の鹿児島発です。
どうしてさつま揚げとかてんぷらとかは揚げたてが美味しいのでしょう?
逆にいえば冷たくなって味の落ちた食品が油で加熱するとなぜ味が生き返るのでしょうか?
おいしいものは砂糖や油を含んでいるものに多いなと感じてはいましたが太りすぎの人を作って食の神様も罪つくりですね。
そんなことを感じながらおいしいさつま揚げで夕食に乾杯!
野菜もいっぱい食べているから心配ないって。


私の“見聞読“
錯視ってなんでしょうか?
雑誌ニュートンの1994年11月号を眺めていたら錯視の特集がありました。
知らなかったのは私だけだったようです、ちょっとインターネットで調べるといくらでも出てくるのですね。
月や太陽が地上に近いところに見えるときは大きく見えて天空高く見える時は小さくみえるあの現象も錯視なのだそうです。
地球の周りをとりまく空気の影響で地上近くにあるときは大きく見えるのかなと適当に思っていましたがこれが目の錯覚だったのですね。
そしてどうしてこのように見えるのかは今もってわからないというのが本当のところらしいです。
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa1894090.html
昔から多くの人によって研究されてきたが今もって良くわからないって何か興味がありませんか。
例えばネットではここに事例がいっぱいあります。これを見るだけでへ〜という感じで時間つぶしには面白そうですね。
そういえば昔週刊誌にこんな模様が時々出ていたような気がします、これは錯視でなくて錯覚でしょうか?
http://www.ritsumei.ac.jp/~akitaoka/
みんな面白いのですが錯視が起きる理由を知りたくなりますね。
ちょっと調べるといっぱい研究されているのですね、例えば
北岡明佳の研究業績リスト”で検索してみてください、研究がこんなにされているのだと感心します。
何か難しそうですがこのリストだけを見ても凄そう。
ソニーのポスターが錯視を応用したものだという話は聞いたことがあるのですが不思議な世界を見つけた気持ちです。
自分の目で見たものは最も信頼できるものだと昔から思っていましたが物によってはそうとは言い切れないというわけです、
大袈裟にいえば自分の生理的な能力の限界がまたしてもこんなものだよと突きつけられた気分にもなります。
世の中のものは何か応用されて価値ができるものですからどのような応用がされるのかちょっと興味があります。
時間つぶしの道具だけで終わるものではないでしょう、
それにしてもこの世の中何と錯覚が多いものかときづかせるだけでも意味がありそうだと思いました。


私のアルバム
北海道旭岳に登った時の写真です、頂上からの眺望はほとんど何も見えなかったのですが途中の景色は良かったです、
チングルマなども咲き誇り最高の季節に登ることができた充実感に皆さん満足していました。